たっぷりご飯に山盛りキャベツ。「きさらぎ亭」は食べ盛りの学生や、仕事帰りのまちの住人たちにも人気の定食屋さんです。東日本大震災、ビルの立ち退き、新型コロナウイルス感染症拡大といういくつもの困難を乗り越えながら、父の食堂を引き継いだ2代目・横山茜さんにお話を伺いました。
——「きさらぎ亭」は、いつ桜新町に生まれたのでしょうか。
きさらぎ亭ができたのは、昭和52(1977)年、私が2歳のときです。それまでは父と母が用賀で雀荘をやっていました。結婚して私が生まれ、母はどうしても私を私立の小学校に入れたかったのですが、雀荘の娘だとちょっとまずいんじゃないかって、それなら食堂をやろうという話になったみたいです。 それでこの辺を探していい物件に出会えたので、桜新町にお店を出しました。
——横山さんは、高校卒業後は20年ほど大阪で生活したと聞きます。何がきっかけで桜新町へ戻ってきたのでしょうか。
私は生まれも育ちも桜新町です。高校卒業後に大阪芸術大学に進学して、大阪で20年くらい生活しました。両親も歳をとっていくし、店もどんどん古くなっていく。いずれ私が店をやるんだろうなとは薄々思っていたのですけれど、父には「お前にできない」と反対されていました。自営業の商売は楽しいこともありますが、大変なことも多いのでやらせたくなかったのでしょうね。でも歳をとっていく二人を見ていて、私しかできないだろうなと考えていました。
大阪にいたときに東日本大震災が起きたんです。ニュースなどで天災のこわさを知って、こういうときに両親のそばにいてあげられたらなっていう思いがありました。きっかけとしては、震災も、両親の年齢的なことも、両方ですね。主人は仕事がどこでもできる執筆業なので、東京で両親と一緒に住むことを快諾してくれました。それで震災後のタイミングで、店を継ぐつもりで引っ越してきました。
——当時、ご両親はどんな反応で、どのようにお店に加わっていきましたか?
父は娘がそばにいてくれたらやっぱり嬉しいのかなと思いますし、母も父とずっと二人っきりだったので、孫を連れていくのもあって喜んでいましたね。でも、「継ぐ」なんて父には言えなかったです。昼が母、夜が父のお店なので、私は母の手伝いをするという形でやっていました。心の中で「いずれは継ぐ」という気持ちを持ちながら、父にしかできない仕事や、母にしかできない仕事を盗み見ながら少しずつ覚えていきました。
朝の仕込みは全部母がやっていました。それを手伝いながら、煮込みや、味噌汁や、刺身を作ったり、チキンカツなど1日分を全部仕込みます。父は、うちのお店の海老クリームフライを作れる唯一の人だったのですが、私が覚えたいって言って教えてもらったりしました。分量も感覚的でしたが、子どものときから見ていたので、すっと入れました。でも父は、「俺が最後までやる。天ぷら揚げながら死にたい。」って言ってました(笑)。
——きさらぎ亭があったビルの老朽化により立ち退きが決まり、2017年にクラウドファンディングを実施しました。どんな思いで、取り組まれたのでしょうか。
2015年に桜新町に戻り、その2年後に立ち退きの話が浮上しました。 継ぐ気で引っ越して来たのに、突然退去しないといけないことが決まり、もうびっくりしましたね。親はもうやめようかと言い出して。続けるのか、追い出されるけどどうするのか、毎夜家族会議を開いて。嫌な時期でした。
クラウドファンディングという形は主人のアイデアでした。クラウドファンディングがまだ今ほど話題になっていない頃で、私も知らないし、両親ももちろん何のこっちゃわからない。みんなに助けてもらうんだよって説明しても、そんなの誰もお金なんかくれるわけないって信じてなかったです。
クラウドファンディングは通常、面接や審査とかいろいろあるらしいんですけど、たまたま担当した方が、きさらぎ亭のお客さんで、うちのことを知ってくださっていたんです。これは急がないといけない、といろいろ協力してくださって、通常より短い時間で始めることができました。出会いが良かったんだと感じています。
やってみたら、かつてうちでアルバイトをしていた社会人の方や、地元の方などみんなが助けてくれて、目標金額も1週間で達成したんです 。すごかったんですよ。すごくお店が愛されてるんだっていうのを実感しました。
——そこから物件探しや継続に向けて動き出したのですね。
こんなにみんなに求められてるのだからやろうよ、って父に言って、物件を探し始めました。資金面は主人が調達を考え、私は物件探しなどに奔走しました。今の場所は「おっこんや」っていう広島焼きのお店でした。ちょうど物件が空く時期だったみたいで、その情報を聞いてすぐに動きました。
新しいお店は、前の店の半分くらいの大きさなので、両親には「こんなちっちゃい店」と言われました。でも父がなるべく前のお店と同じ感覚で動けるように、コの字だったカウンターはUの字くらいにしました。通常はそこまで広くとらないと指摘された厨房も、前のお店と同様にお店の半分くらいの面積を占めるようにして、フライヤーや、調理器具、食材の配置、動線は変えずに設計しました。
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