「サザエさん」とともに地域にある長谷川町子美術館・記念館

誰もが知っている『サザエさん』の作者、長谷川町子さん。さくらのね「スペシャル・インタビュー」の第1回目は、長谷川町子美術館・記念館の館長・川口淳二さんと副館長であり学芸員の橋本野乃子さんにお話を伺いました。

——『サザエさん』は、長谷川町子さん一家が福岡に暮らしているときに誕生した漫画です。長谷川町子美術館は、なぜここ世田谷・桜新町に開館したのでしょうか。

川口館長(以下、川口):長谷川町子さんは1920(大正9)年佐賀県生まれ。3人姉妹の次女で、幼少期から福岡に住んでいました。13歳の時に父の死をきっかけに、母と姉の毬子・町子・妹の洋子はそろって上京します。東京で『のらくろ』の作者・田河水泡に弟子入りし、15歳で日本初の女性漫画家として華々しくデビューしました。しかし、やがて戦争が始まり、1944(昭和19)年3月、一家は福岡へ疎開。7月に西日本新聞社に入社するも翌年の11月13日に退社します。『サザエさん』の連載は、その短い間勤務していた西日本新聞社の僚紙である『夕刊フクニチ』からの依頼で、1946(昭和21)年4月22日に始まりました。地方紙ということもあって気軽に引き受けた町子さんは、自宅の近くの海岸を散歩しているときに家族構成や名前を海産物にすることを思いついたのです。その年、一家は福岡の家を売却して再び東京に上京。当時の世田谷区新町3丁目、そう、ここ桜新町に居を構えました。

長谷川町子さんのことを語る長谷川町子美術館・記念館館長の川口淳二さん

——桜新町が気に入って、そこに美術館をオープンしたのですね。

川口:長谷川家は閑静な町が好きだったみたいです。桜新町に住み、姉の毬子さんとともに長谷川町子作品を伝えていくための出版社「姉妹社」を立ち上げました。『サザエさん』をはじめとする町子さんの執筆活動は大変順調で、売れっ子作家として活躍していました。忙しい生活の合間をぬって、出版で得た利益で絵画などの美術品を購入しては、自宅で絵を掛け替えたり、楽しんでいたんです。

橋本副館長(以下、橋本):長谷川町子美術館のリーフレットの「私と美術館」の漫画にもあるように、東山魁夷の絵を自宅の居間にかけていたら、築地の料亭の方が来訪し、「なんぼいい絵があってもお内で眺めやすだけですわな。そこいくとうちは大勢のお客さんが見てくれはります」と言われ、空しさを感じたと言います。漫画で得た収益で、好きで買い集めた美術品ですが、一人で楽しむのではなく、社会に還元する目的で美術館をつくることを、町子さんは決意しました。そうして、1985年11月3日、約40年間住み慣れた桜新町の住まいの近く、姉妹社の倉庫だったところに「長谷川美術館」を開館しました(1992年に町子さんが亡くなり、その後、館名を「長谷川町子美術館」に名称変更)。

 

長谷川町子美術館のリーフレットに掲載されている、町子が描き下ろした美術館開館にまつわる漫画「私と美術館」

——お二人がここで働くことになったきっかけを教えてください。

川口:私の家内の母と町子さんの姉の毬子さんが福岡の女学校の同級生で親しかったんです。1976年、31歳の秋に職を変えたいと当時勤めていた会社を辞めたんですが、家内の母が毬子さんに「うちの婿を雇ってくれない?」と相談したのです。すぐに連れておいでと、毬子さんと町子さんに面接を受けることになりました。ネクタイ姿で行ったら、「うちの会社はネクタイするような仕事ではないよ。何でもやらなきゃいけないけれど、やる?」と。当時5人くらいのスタッフがいて、自分だけがネクタイをしている状況で何でもやるかどうかを確認されたんです。当時町子さんは56歳で、私は「川口くん」って呼ばれていました。

——具体的にはどのようなことをされたのでしょうか?

川口:姉妹社という出版社だったので、品出しや返品本の出し入れの他に、全国の出版社の取次店や書店さんをまわって注文を取ったりもしました。三姉妹でおでかけする時の運転手もつとめました。桜新町のご自宅の掃除も、芝刈りもしましたし、自転車でお肉屋さんへおつかいに行ったりもしました。本当に何でも屋でしたね(笑)

——学芸員として入られた橋本さんは?

橋本:以前、栃木の美術館で学芸員をしていたのですが、そこの館長が長谷川町子美術館の理事をされていたんです。私はすでに退職して東京で別の勉強をしていたのですが、その時に学芸員を探しているとお声がけをいただきました。勤めてから、かれこれ17年になります。残念ながら入ったときには町子さんは亡くなられていたので、私がお会いしたことがあるのは姉の毬子さんのみです。

長く学芸員をつとめ、現在は副館長もつとめる橋本野乃子さん

川口:橋本さんは、本当に努力家です。橋本さんに入ってもらって美術館としても本格的な学芸業務がスタートしました。

橋本:町子さんが亡くなったあと、姉妹で進められていたことを、毬子さんがすべて一人でやられました。毬子さんが作品の蒐集・購入する場に立ち会ったりしながら、お元気なときは展示についても全部ご自身で決定して進めてくださっていたので、私は逆に漫画資料を読み込んだり、収蔵庫にこもって作品整理をしたり、データベースづくりを進めることができました。

川口:展示は百貨店の美術部の方が来ることもあれば、何でも屋の私がやったりもしました。大きい作品を展示してから、「やっぱり替える」と言われた時はきつかったですね(笑)


——長谷川町子美術館の特徴を教えてください。

川口:桜新町の姉妹社の倉庫の跡地を利用して建てられ、すぐそばに町子さんの住まいがありましたが、町子さんは美術館のオープン前に用賀に引っ越しをしています。住宅街にある美術館ということで、買い物帰りに立ち寄れるような、そんな気軽な美術館であるような願いが込められています。

長谷川町子美術館外観 ©️長谷川町子美術館

橋本:設計施工は鹿島建設で、折り紙のような鋭角なラインは、町子さん自身が考えたものです。また、外壁のレンガも町子さんがこだわって、岐阜県多治見市の国代耐火工業所に制作してもらいました。展示物は、町子さんと姉の毬子さんが展覧会をまわって蒐集した美術品工芸品で構成され、その種類は多岐にわたります。コレクション点数は、日本画311点、洋画250点、工芸品195点、彫塑32点の総数788点になります。

川口:蒐集のコンセプトが、「長谷川町子と姉の毬子が、作家・ジャンルにこだわらず、好きな作品を購入する」なので、お二人亡きあとは、私を含めて新たに作品を購入することはありません。

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